臨時パトローネ

非日常を夢見る社畜的哲学

流れないトイレ

歳を取るに連れて肉体は劣るが、脳は発達していくなどいう研究があったことを思いだす。不可逆的な老人化を経ていくなかでは、嬉しい話ではあるが、今と比べ昔のほうがシナプスが続くというか、いろいろなアイデアが同時多発的に動き出し、制御することに楽しみが溢れ出していたものだが、今はなかなかそうはいかない。まず言葉が出てこない。これは本を読まなくなったこともあるのかもしれないが、検索機能というものが辞書以外で外部に出来てしまい、尚且つそれを携行できてしまうことで身体の記憶媒体である脳を使わなくなってしまったことが原因かもしれない。

こうして文章を書き連ねても、書くことと打つことはまるで違い、変換も瞬時にできてしまうことにより、脳を使うことがほぼなくなってしまっている。それはそれとして、思い浮かべたことが即時に文字として姿を現すことにより、脳からそのまま放出してしまい、脳に残らなくなってしまうような気がしてならない。吐き出すように書く、という感覚であろうか。吐き出したものは当然残らない。そんな吐瀉物だらけのネット界隈なのだから汚物と評されても仕方ない。忘れがちなものだが、このスペースは誰かの管理下の場所であり、その管理者も誰かからこのスペースを借りている。

そもそも、誰の所有地であるのかをわかるすべはあるのだろうか。